8月, 2013年
寺とグリーフケア
第2回悲嘆講座
NPO法人仙台グリーフケア研究会
JDGSプロジェクト
両団体共催の講座に参加。
様々な職種のかた、70名が受講。
震災や自死で大切な人を亡くされたかたの
悲しみに如何に向き合うか。
大人のみならず子供のケアにも
大きな配慮が必要だと痛感。
講義だけでなくワークも体験。
これには驚いた。
この実践のほうが、100の説法よりも
どれだけ有り難く、有効か、と思うほど。
坊さんの養成カリキュラムにも、
この種の講座は必須として取り入れるべきだな。。。
それにしても、
死別による悲嘆に暮れる無数の人に対し、
かくも懸命に向き合おうとする人たちが居る。
特に主催者、理事の先生方は
新たな団体立ち上げや、活動の啓蒙に
懸命に取り組んでいらっしゃるが、
まだまだ必要な人への認知が進んでいないのが
現状だ。
ところで、檀家はある意味、
遺族会の役割として機能させねばならん。
僧侶も寺、仏教の原点に立ち戻り、
グリーフケアの必要性と手法を学び、
この発露の先に宗教儀礼が成り立つとの
意識を持つべきだ。
でなければ、せめて、
このような活動に励む団体が
存在することを認知し、必要に応じ、
檀家さんに情報提供していくことが肝要だ。
己の無知、無力に気付かされる毎日である。
多くの学びと気付きを下さった
主催者様、講師、参加者の皆様に感謝申し上げます。
明日の二日目も宜しくお願い致します。
合掌
NPO法人仙台グリーフケア研究会
http://www.sendai-griefcare.org/
JDGSプロジェクト
http://jdgs.jp/about_JDGS/JDGS_members.html
お経の説明責任
今日は、私のCDの「理趣経」を聴き、
自分も歌ってみたい!という
小学生のお子さまにお経の練習と説明を。
このお経は真言宗で常に用いる重要なお経だが、
誤解が生じないよう、一定の修行をしないと
読んではいけない決まりになっている。
従って、本件につき、各方面から
苦言をいただくのは重々覚悟。
だが。決まりごと云々の前に、
この小学生の感性に価値を見出し、感謝したい。
「歌ってもいいけど、お経の説明させてね」
とのお願いに、すぐにご家族で来院してくれた。
般若心経を一緒に唱え、
しかるのちに理趣経の
読みかた、意味するところを伝えた。
「欲求は元気の源。悪いことじゃない。
けど、その元気を家族や友達のためにも
使ってあげてね」
もちろん、今日の手法、説明が充分とは思わないが、
関心を持ってくれている気持ちに応えるべく、
最大限努力したことでお許しいただきたい。
機会があれば今後の意欲や理解力に応じ、
より深く伝えていくことも心がけたい。
そもそも、お経には説明責任が必要だと考える。
私は葬儀の際でも、場の雰囲気に応じ、
内容の実況解説をしながら進行することを心がけている。
賛否はあろうが、私が未だ、
「あんたのお経を聴いただけで救われる」
と言われるほどの大僧正ではない以上、
説明なしにお布施をいただくほど
厚顔無恥ではない。ので。
ニュアンスはちょっと違うけど、、
お経にもインフォームドコンセント、が必要だ。
「よくわからないものこそ有り難い」
「坊さんのすることなら間違いない」
としてくれる信者さんは、今のご時世、
そう多くないので。
そのためには、先ずに以て自己研鑽が必須であることは
言うまでもない。
聲奏一如 Vol.2 大分公演
聲奏一如 Vol.2 大分公演
「高野山の声明と讃美歌の祈り」
~室内管弦楽とパーカッション、
ゴスペルクワイアーとともに~
H23年の第1回豊島公会堂公演から1年8ヶ月。
去る平成25年9月14日、大分・BRICK BLOCKにて
第2回となるライヴを開催した。
今回は、ヴィオラ、チェロ、フルート、
ピアノに加え、ゴスペルクワイア14名にも
ご参加いただき、クラシックな響きに乗せて
お経、聲明を唱えるという構成。
開催一週間前にはOBSラジオ、
「Drマーサーとカレイなる仲間たち」に
松島龍戒と、今回のライブのきっかけであり、
中心的役割を担っていただいたフルートの
久知良明美さんと出演させていただいたこともあり、
キャパを大きく超える138名の来場をいただいた。
今回の主たるコンセプトは、
「宗教の枠を超えて祈りを届ける」
松島のお経のためのオリジナル曲に加え、
讃美歌やスタンダードなクラシック曲に合わせて
お経やゴスペルクワイアが共演するという、
まさに私が目指す、
「こだわりがない、というこだわり」を表現。
音楽という世界共通のツールを用い、祈りとは、
本来宗教の壁はないという姿勢の一端を表現した、
前代未聞のコンセプトに、多くの観客の皆様に
楽しんでいただけたライブになったと思う。
次なる活動は、東京でお経ミュージックバンドを結成。
既にリハーサルを始めている。
次回は東京でのライブとなりそうだ。
(写真はクリックで拡大 ブラウザの戻るボタンで戻って下さい)
「逆境」 タダでモノを教わる
「優秀な人間は環境に頼らない」
これは、先日TVで聴いた、
今、流行りとされている塾の先生の言葉。
その前後の趣旨は手放しに賛同できないのだが、
この言葉そのものには同意。
たとえば、自分の寺が、
境内が狭い
駅から遠い
地元が過疎
よって、
葬儀が減った
お布施が減った
お墓が売れない
として。
環境を憂いている間に、人生終わってしまいます。
どうにもならない環境や、
メシが食えない苦境の中にこそ、
活路が生まれる。
そもそも、
逆境の反対をやれば良い訳で、
こんな簡単なことはない。
例えば。
境内が狭けりゃ、
・合葬墓を作る
・二階建ての墓を作る
すると、一階は全天候型
・小さい墓を開発する
すると、値段が安くなる
「小家族向けにどうぞ」
・掃除が行き届く
すると、綺麗!が売りに
・二人しか入れないコンセプト墓を作る
すると、同性愛者同士でもOK
誰にも邪魔されない
・墓を返す、檀家を抜ける際、無料にする
すると、お墓のリサイクルが進む
「むしろ寺から礼金を差し上げたい」
一つの逆境から、アイデアなんて、
掃いて捨てるほど湧き出てくる。
だから逆境ってやつは有り難い。
いつでもどこでも授業料なしで教えてくれるのだから。
空海さん曰く、
「環境は人の心によって変ず」
与えられた環境を満足と思える心を育てる。
そして、心と行動によって環境をも変えることが出来る。
意訳だけど。
先日、はじめてもらったまともな原稿の依頼、
ーといっても寺が母体のNPOの20周年記念冊子だがー
を受け、先ほど校了した、
寺の25年の活動を振り返る文章を書きながら、
ふと思った戯言。
「陽射しやそよ風は、えこひいきしない」
柴田トヨさんの言葉も思い出すね。
(本文に挙げた逆境の例と、当院の逆境は、
必ずしも一致するものではありません^^)
45歳 誕生日
45歳を迎えた。
この日、
息子は、一日私につきあって遊んでくれた。
娘は、一日を費やしてケーキを作ってくれた。
下の息子は、いい子にしていてくれた。
妻は、娘をサポートし、誕生会の準備をしてくれた。
こんな素敵な誕生日は初めてである。
ところで、子の成長を感じるたびに、
役割をひとつ終えた気持ちになる。
年齢を重ねることは、冥途への一里塚であり、
めでたくもあり、めでたくもなし(一休宗純)
であるが、私は寿命の先にある命も見据え、
常に前を向き、めでたく迎えたい。
葉っぱのフレディも、
人々に木陰を与え、彩りを与え、
葉っぱとして一年間の人生を終えたあとも、
大地に還り、木に栄養を与え続ける。
人が遺すものは、遺伝子だけではない。
その役割を全うすることで、
現世に有形無形の財産を遺し、
死後も人々はその享受を得ることが出来る。
それは無形の場合もあるので、遺された人もまた、
それを感じるセンスを磨かねばならない。
目に見えない風を感じることができるように。
体と心。
これとは独立して存在する命の永続を感じ、
現世で為すべき事を全うする。
たとえ中途で終わっても、後悔することなく、
世の中に命の片鱗を遺したことを信じ、
善行に努め、生きて生きて生きたいね。
まだ自分には難しい。
従って、45の誕生日を迎えるも、
人生の折り返し地点には、まだほど遠いのである。